サバの光は愛のメッセージ
表現の自由とはなんだろう。
1996年に放映された特撮ヒーロー番組である 『超光戦士シャンゼリオン』において、表現について考えさせられるエピソードがある、それが「サバじゃねぇ!」だ。変身アイテムを仲間が次々と間違えて手渡すという流れで何故か立派な生サバを手にした主人公が「サバじゃねぇ!」と叫ぶ。特撮ヒーローでコントが繰り広げられる必要性はいまいち不明だが、メイン視聴者である少年層には笑いが必要との判断だったのかもしれない。
シャンゼリオンはわりとコミカルなシーンも多いシリーズだったが、なんと「サバじゃねぇ!2」も放映された、専門用語で言えばテンドンである。武器を求める主人公に仲間が生サバを手渡す流れで主人公はまさかの劇中2度目となる「サバじゃねぇ!」を叫んだ。サバに対する異常とも言える執着、なんなんだこの番組。
だが「サバじゃねぇ!2」はそれだけでは終わらなかった、視聴者の怒り(?)を代弁したのか劇中屈指のグロシーンが展開されたのだ。特撮ヒーローと言えば基本的に暴力で物事を解決するのがセオリーだが、実際の戦闘シーンでは謎のビームやエフェクトを駆使してあまり残酷さを感じさせない作りになっているし、怪人や怪獣の死亡シーンも爆散するのが原則となっている。
しかしシャンゼリオンはサバに容赦しなかった、罪もないサバは戦闘に巻き込まれた結果、首が胴体から離れ血まみれで放り出されるという劇中屈指のグロシーンが放映されてしまったのだ、魚クンが視聴したらギョギョー!!と叫んで気絶してもおかしくない。
私は考えた、これは派手なバイオレンスシーンを作れない制作サイドが考えた苦肉の策なのではないだろうか。昨今は残酷なシーンやショッキングな映像が放映されるとすぐにクレームがつけられ、表現者として思うような作品が作れない世の中だろう。怪人の脅威を表現するために一般人が殺される描写をすれば、怪人より恐ろしい団体が訴訟を起こそうするかもしれない。
そこへきて食卓でおなじみのサバである、彼が切り刻まれてもそれは殺害ではなく調理なのだ。監督はサバにかけた、怪人の凶刃に倒れるサバの姿がバイオレンスシーンの暗喩として活躍したのだ、そして殉職するサバ、彼の活躍は助演男優賞ものだ。
サバが光りモノと言われる意味、それは彼が持つ演技力、そして作品に賭けた愛のきらめきが含まれているのかもしれない。
銀チャ (シ中 ヒカ ノレ) @gin32009 さんのお題『サバじゃねぇ2』より